ヨセミテでの生活
MIKE GRAHAMをはじめ、70年代のヨセミテで活躍した多くのクライマーたちからなるクライミング集団、STONE MASTERSはどんなグループなのか、ヨセミテでのクライミング生活はどんな暮らしだったのだろうか。
当時初登以来3年間誰にも登られなかったというSuicide RockにあるValhallaというルートがあった。ヨセミテでクライミングを始めたばかりのころ、ぼくらみたいな10代の若いクライマーたちの間では、そこを登れるかどうかが実力を測る物差しのようになっていた。毎日、みんなで一生懸命練習して、みんな次々と完登していったんだ。いつしか登れた者同士、じゃあみんなでストーンマスターズと名乗ろうとなった。そういうカジュアルにできたのがこのチームなんだ。
ヨセミテでも、トレーニングの基本は、やっぱりボルダリングだ。ボルダリングというのはあくまでも本番に向けての踏み台だけど、技術的なことはビッグルートと変わらない。テクニックを磨くには最適だし、落ちることを気にせず何度も練習ができる。大きな壁に行ったときも、ふとした瞬間に練習と同じムーブが出てくることも多々あった。
フリークライミングがヨセミテではじまったといわれているみたいだけど、ぼくらは意識してそれを生み出そうとしたという感覚はないんだ。ただ、より難しい登り方を目指して切磋琢磨していった結果、フリーという「スタイル」が選ばれていっただけなんだ。クラックが多いヨセミテでは確かにフリークライミングが多かったけど、だからといってずっとフリークライミングしかしなかったわけではなかった。同時に大きい壁があるので、エイドクライミングも少なからずやっていた。
当時のヨセミテでは、便利なクライミングパンツなんて当然なかったから、大抵の場合、ジーンズか、白いセイラ―パンツを履いて登っていた。あるもののなかで一番涼しくて動きやすかったのがそれだったから。上着は、暑かったし日焼けもしたかったから着ないことも多かった。今となってはあまり薦められる方法じゃないけどね。スカーフ(バンダナ)はみんな長髪で髪がうるさくならないように使っていたけど、いつしか、ユニフォームみたいなものになっていったね。
さまざまなクライミングギアも今のようには存在していなかった。だからみんな、必要ならば一から作るしかなかった。まさに「必要は発明の母」だね。モノを作るのが好きだったし、他に誰もやっていなかったので、あるときぼくが自分でクライミングギアを作り始めたんだ。何が必要なのかは分かっていた。パンツや衣類だけでなく、ハンモック(ポータレッジ)なんかも発明したんだ。作ったものは友達に売って、冬の遠征費用の足しにしたりもした。
基本的に縫物は大好きだ。裁縫のスキルはお母さんから教えてもらった。ザックとかホールバックも作ってた。ポータレッジを作るには特殊な裁縫技術が必要だったんだけど、それはガールフレンド(後の奥様)から教えてもらった。彼女は南カリフォルニアに住んでた頃、パラシュートの縫製工場に勤めていたんだ。
ヨセミテでの一番のごちそうは、スパゲッティだ。10人分以上、大きな鍋に大量に作る。誰かが水を切る。ある日、仲間のジョン・バーカーがその鍋をひっくり返して。その時は大変な騒ぎになった、今では笑い話だけどね。
ヨセミテ以外では、焚火とホットサンドメーカーで作るホットサンドが忘れられない。パンとバター、肉、卵で作る。あまりに美味しくて、メーカーごと持ち帰って子どもに作ってあげたほどだ。
僕らはお金をもっていなかったけど、貧しいとはまったく思っていなかった。週に4回くらい、仲間同士でレストランに行き、そこで大きなテーブルに座り、1ドル25セントの大きなベイクドポテトを頼む。それにバターとサワークリームをたっぷり塗って食べていた。チップも払わないで、いつもそれをやっていたから、ウェイターには嫌われていただろうね。
ある晩、8人のクライマーでレストランに行ったとき、何も注文していないのにおもむろに大きなお皿を置かれた。何かと思ったら、そこには魚の頭としっぽなどの残飯がたんまりと盛ってあったんだ。ウェイターとウェイトレスは笑ってた。ぼくらのうち何人かは怒っていたけど、何人かはこれを見て「よし、試してみようぜ」と言ったんだ。頭と尻尾は魚の部位の中でも一番おいしいということが分かった。最終的にはみんなで笑って終わったよ。